毒親と。

毒親に対して何もできない私の吐き溜め。

ご挨拶と登場人物 // 毒親の生態まとめ

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毒親と中学受験。

結果から言うと母の望む中学に進学した。私は全く行きたい学校ではなかった。
そこに合格するまでの記録。
 
 
 
小学3年生の後半から私は関西で有名な某進学塾の定期テストを受けていた。入塾テストは1回で合格したが、なぜか3年生の間は定期テストだけだった。
小学4年生になると私は進学塾に正式に入塾した。毎回テストがあり、点数が悪いと叩かれた。怒鳴られた。
 
母はとにかく、父の前妻の娘と父の家系の従姉妹よりも「いい学校」に入れたくて仕方なかったのだ。後から聞けば母が勝手に戦っていた女の子たちは私の頭なら塾なんて行かなくても入学できたであろう学校ばかりで、スパルタ塾に土日はお弁当を2つ持って12時間も缶詰だった私には心底羨ましかった。
 
 
 
小学4年生の途中で私は進学塾の地元の校舎から本校に移った。競争心がうんちゃらと言っていたが、従姉妹がそこに行っていたからだろう。ただ、そこは素晴らしかった。
S1コースとS2コースのテストは同じなのだが、テスト時間が違う。S1コースが算数、社会とくればS2コースは社会、算数だった。周りは別クラスに友達を作ってテストの回答を持ち出して交換していたのだ。頭がいいのか悪いのか、今でもそういうことをしているのかは分からないけれど、私ももちろん仲間入りした。私達はテストの点数が良すぎてSSコースに上がることもなく悪すぎてAコースに落ちることもないように調節しながらテストを受けていた
 
その進学塾は通っていた小学校からも何人か通っていた。もちろん地元の校舎に通う子もいた私はその子も仲間に入れた。校舎が違えばテストの曜日も違うのだ。何人かで回答用紙を回してメモを作る様子は異様だったと思う。だがそうでもして親に怒られることを逃げてたい人間で溢れていた。
 
 
 
 
私は算数が苦手だった。焦って間違うことが多く、あと1つのところでミスる。
そのことに腹を立てた母は私を毎日6時に起こし、朝から計算問題を解いてから小学校に見送るようになった。間違うと朝から定規で背中を叩かれたり辞書の角で頭をぶたれた。今思えばこれって虐待
 
スパルタ塾は夜10時頃に帰宅するようなスケジュールだったと思う。そこからテストのお説教や宿題、復習の繰り返しだったので必然的に日付が変わってから寝ていたはずなので私は案の定、睡眠不足で倒れた。倒れたが学校に行ったような気がする。
 
 
 
 
私は関西で1番、偏差値の高い女子校に行きたいと言ったことがある。確か6年生になってすぐの時だ。その数週間後に母と塾講師の面談があったのだが、「あんたの頭じゃ合格率0%だってよ!お母さんが恥かいたわ!」とご立腹の様子だった。実際私が行った女子校とそこまで差があったわけではないのに、その中学は「合格率100%」と言われたと聞かされた。まぁ、実際は行きたかった女子校も合格率60~80%と言われていたらしいが母はどうしても安心して受験させたかったらしく、合格率100%の中で1番偏差値が上の学校を私に受験させたのだ。母の言い分は「0%って言えば諦めつくでしょ?」だった。聞かされたのは合格して数週間後と割と早い時期だったので母を恨んだきっかけかもしれない。
 
 
 
 
そんなある日。その日もこっぴどく親に怒鳴られた私は夜に日記を書いていた。その日は初めて「自殺したい」と書いて私はトイレに行った。リビングに戻ると母に「座れ!!!!」と言われていつものように正座をさせられた。そして目の前に広げられた日記。私は衝撃だった。鍵のかかる引き出しに入れているはずの日記が目の前にあるのだ。
 
母は自殺がいけないことについて泣きながら私に訴えかけていたが、自分は全て母に見られていて隠すことなんて出来ない、プライバシーなんてない現実を受け入れられなくて泣いていた。どうして見るの?なんて言えなかった。
 
 
ささやかな反抗として「塾で勉強する」と言って友達と遊びに行ったことがある。案の定、塾に電話をされて見つかった私は母に怒鳴られることになるのだが、とにかく家にいたくなかった私は親に頼んで個別コースも受講することにしていた。個別コースなんて座って解いているフリをしていればいいだけだった。
 
 
 
 
実際に受験をするのは私なので私の脳みそにかかっていたのだが、母が頑張っていた。自作の問題集を作っていた。実際に解いたのかは覚えていないが相当の時間とお金と労力を使っていた。
 
そんな母のストレスの発散は私の服を買うことと、当時はやっていたアイドルのコンサートに私を連れて行くことだった。「ほら、喜ばせることもしてるでしょ?」というのが見え見えなのだが、私はコンサートは素直に嬉しかった。服はなんとも言えないが某有名ブランドで染められて金のかかる進学塾に通う私はお金持ちに見えていただろうと思う。
 
 
心底無駄な見栄をはる毒親だった。
 
 
 
 
ここまで影の薄い父。アルコールばかり摂取していた。
母は逃げるように私にしか興味を示せずに色々とおかしい家庭だったと思う。
 
よく私も母の志望校に合格したもんだ。
 
 
私の受験はここで終わったと思ったが、終わらせないのが私。
 
 
 

毒親と私の幼少期。

これから少し、過去を振り返ろうと思う。自分がどうしてこうなったかを見つめるためにも役立つかな。

 

昔は2DKのアパートに父、母、祖母、私の4人で暮らしていた。確か3歳頃に祖母を引き取ったはず。
 
私は物心ついた時に父と名字が違うことが不思議だった。
 
 
 
毒親は自分で私の事を「玩具だった」と言う。アルバムも何冊もあり、日付が同じなのに服が違っているなんて当たり前だった。着せ替え人形であり、自分の意のままに動かせる人形だった。
 
 
毒親は教育熱心だった。理由は父の前妻の娘2人、父の家系の従姉妹に負けたくなかったから。幼稚園児の時点で絵本を自分で読んだし、算数もほいほい解いた。私の名前は当て字と言えば当て字で書き間違えや読み間違えも多いが幼稚園児の時に書き間違えを指摘して自分で書いて見せた。我ながら気持ち悪い。
 
覚えているだけで絵画教室、器械体操、英会話、ダンス、バレエ、エレクトーン、スイミングに通っていた。毒親曰く「嫌って言わないいい子だった」らしいが、嫌と言って相当怒られていたような記憶があるので怖かったんだと思う。
 
 
 
今でも覚えている3歳頃のある日。
夜に父の運転する車で近所の公園の前を通った。その公園を見た私は「今日、遊びに来た」と言ったのだが母は「遊びたいなら今すぐ降りろ」と言った。父に車を停めさせ、車から降ろされた。私はそりゃあもう、いっぱい泣いていた。
そこまでしか記憶はないが、相当鮮明な記憶で母も覚えているようだった。この話をすると「さっさと忘れたらいいのに」と言う。
 
 
私が3歳の頃だったと思う。阪神淡路大震災があった。父がいなければ私はタンスの下敷きで死んでいた。だがこれを機に父の精神が死んだ。鬱病
幼稚園児の私はお父さんはいつも寝ている、と思っていたし母が泣きながら色んなところに電話をしている時は人形遊びをしていた。後から知ったが父は酒を飲んで車に乗って家出を何度もしていたらしい。
 
父の鬱病は私の記憶の中では薄い。母の父へのストレスは全て私に向いていたし、私はお稽古で家にいることが少なかったから。友達と遊んだ記憶が全然ない分、泣きながら練習をしたことが鮮明に思い出せる。
 
 
幼稚園児だった私は突然、英会話スクールに通うことになった。
可愛いイラストの書かれたアルファベットのカードを目の前に並べられてアルファベットを覚えさせられた。私はMとNが分からなかった。正座をしていた太ももを何度も叩かれた記憶があるが、母には「1日でアルファベットを全部覚えたいい子」として素晴らしい思い出になっている。
 
 
 
小学3年生になる頃に引っ越した。3LDKで家族は同じ。自分の部屋が出来たが寝る時は親子3人で寝た。
 
この頃には父の鬱病はかなり軽くなっていたように思う。酒を飲んでから仕事に行くこともなくなっていた。そしてこの頃に父には本当は奥さんがいて、娘がいること。本当は別居状態にあるだけで籍はその人と入っていること。今から父はその人との籍を抜いて準備が整ったら母と籍を入れて戸籍上で夫婦になること。それを聞かされた。小学3年生にして衝撃だったがだから名字が違うのか~くらいに思っていた。
 
小学4年生になるときに両親が籍を入れて私の名字はようやく大好きな父と同じになった。
 
 
 
 
幼少期の私は本当にお稽古に時間を割いていた。ゲームなんてしたことがなかった。友達の家に行ったこともないし呼んだこともない。ひたすら母に褒められるように頑張っていた。
 
エレクトーンだって頑張った。県内2位までにしかなれなかったけれど。器械体操はもっと頑張っていた。年2、3回ある大会は辞めるまで全て優勝していた。ダンスはいつだってセンターで踊った。唯一、自分からやりたいと言った水泳は楽しんでいたが小学3年生の時の引越を機に辞めてしまった。転校先に水泳が得意な同級生が何人もいて、自分では到底及ばないことが恥ずかしかったのだと思う。
 
「何事もそつなくこなせる子供だったことが悪かった」そう言われた時は絶望した。
 
 
 
 
ここまでの期間に理不尽に母に叩かれ、怒鳴られたことは容易に思い出せるのに褒められたことを思い出せない。
エピソードがありすぎて割愛させてもらう程だ。
 
悲しいかな、毒親はここから加速する。
 
 

私と認知の歪み。

毒親について考えてきたけれど、毒親をなんとかしようと思うことは確実に無理だ。特に母はパニック障害を患った過去があり、下手に刺激すると再発に繋がりそうなので刺激はしないよう努めている。母が1人なら勝手にしろと言えるが祖母もいるので、ここで再発されると私は確実に物理的距離も近くならざるを得ない。そこで私は全てを諦めて「自分が我慢すればそれでいい、母の言うことを聞いていればいいのだ」と思っていた。
 
 
まだ現役でアイドルにお金を突っ込んで生きていたいアイドル依存症の私はなんだかんだで生きづらさを感じていた。
 
普段はあまり気にしていないが、なんだか人付き合いが苦手になるタイミングが突然やってくる。特に苦手なのが「行動がゆっくりな人」「理解力が乏しい人」だ。本当にイライライする。これに関しては自分がせっかちなだけだと思っていた。
ついでに言うと「マウンティングを取ってくる人」「手の平を返したように疎遠になる人」も苦手だ。
 
 
人付き合いもそうだが、親が毒針を指してきている時の自分のなんともいえない虚無を感じること、罪悪感が募って仕方がないこと、自分って本当に生きている価値があるのか?を延々と考えていることが疲れていた。
 
たまたま「生きている価値とか考えるじゃないですか」と上司に言った時に「そんなこと考えないよ?」と返されて自分がズレていることに気付いたのだ。私はメールに添付を忘れただけで生きてる価値なんてないと思う程、ドン底まで落ちることが多々あるのだが。
 
 
 
もしかしなくても、周りがあっけらかんとしているバカの集団ではなく「私がおかしい」のではないか!?
 
 
 
ようやく気付いたゆーさん、この時25歳。そこからなぜか飛躍して「自分とは違う生き物だから分かり合えなくて当然」という考えを持って生きていくことができるようになった。少しだけ成長した!トロくてバカな新卒に対しても少しだけ優しくなれるようになった!褒めて!!といつも思いながら今日もニコニコしていたのだが、私はそれでもなんだか生きづらさを感じていた。
 
対人関係がちょっと良くなっても結局は自分が我慢している部分が多く、ちょっとしたことでドン底にまで落ち込むという1番なんとかしたい部分が残っていた。
 
 
 
で、ちょと調べてみたらうわぁ…(笑)となった。そう。
 
認知の歪み
 
 
完全なる私。私の性格を表している。メモついでに記載。
 
 
 
  1. 全か無か思考
  2. 一般化のしすぎ
  3. 心のフィルター
  4. マイナス化思考(プラスの否定)
  5. 結論への飛躍
  6. 拡大解釈(破滅化)と過小評価
  7. 感情的決め付け
  8. すべき思考
  9. レッテル貼り
  10. 個人化(責任転嫁)
 
そしてついでにこちらでチェックをしてみた。

 

cbt-c.info

 

結果は1、2、3、5、7、8、9、10に当てはまった。そんな自分にまた少し落ち込んだ。
 
これでも昔に比べたら大分マシになっていると自分では思っているので、昔の私を知ってる人に申し訳なくなった。
 
 
 
ついでに言うと自分で非定型うつを疑っている。夜、急にとんでもなく孤独感を感じて「生きる意味」について考えて最終的には好きなアイドルのDVDを見て号泣しながら寝る。ここは我ながらハッピーだと思うが、翌朝にまで抑うつ状態を引きずる時がたまにあるのだ。そうなると笑っていられなくて一気に暗くなって自分は何をしているのだろうと余計に暗くなる。
 
 
 
まあこの話はまた別なのだろうけれど、根本に認知の歪みが存在する点は同じのようだ。そうか。この認知の歪みを自分でどうやって正せばいいのかはまだ謎なのだが、とりあえず気が向けば自分の気持ちをノートに書き留めようと思う。
 
 
 
1 「状況」(嫌なこと)
2 「自動思考」(その時浮かんだ感情)
3 「合理思考」(自分でなく友人ならどうアドバイスするか)
 
この3点を書いた方がいいみたいだが、そんなことを始めたら完璧にしないといけない!と思って余計にストレスが溜まる気がするのでやめておこうと思う。だいたい嫌な気分になった出来事を思い出したら寝る前にクヨクヨする。ちなみに褒め日記は過去に1週間で終了した。
 
 
 
ちなみに、私の記入漏れについて「これ記入ないんですけど大丈夫なんですかね?」って聞いてくる後輩は滅してほしい。「漏れてますよ」で良くない?と思っているけれどコレも認知の歪みなのだろうか。歪みだろうな。
 
 

毒親に反抗。

今回、ブログ開設にあたった経緯がある。
 
初めて母に反抗したのだ。
 
 
その日も私は内緒でアイドルを追っかけていた。電話が出来ないことは伝えてあったのに割と急ぎの連絡が来ていたのでその場で電話をした。
 
アイドルのコンサートの申込の話だったが、私達の「普通」と母の考え方が異なっていたことで母が電話を切った。
 
 
ああ、また病気。私が楽しんでいることが許せないんだわ。
 
そう思っていたら母の友人でアイドルファン、そして私のこともよく知る人からも同じ件について連絡がきていることに気付いて申し訳なくてその人に電話をした。
 
 
 
迷惑をかけてごめん、と謝っている時になぜか私の涙腺崩壊。新橋で崩壊。
 
初めて母を良く知る人に「母は思ってるよりいい人じゃない」「私の楽しみを許せない人」「私が思い通りにならないと怒る人」であることを伝えたのだ。今思えば、アイドルの追っかけをして手を振ってもらった楽しい思い出の最後にドン底に突き落としてきた母が憎かったんだと思う。
 
 
知り合いとの電話の後、母に電話をかけても出ないがLINEで「絶対申込するな」と拗ねてキレている連絡が入った。私は知り合いと電話をし始めた最初こそ「私が出来損ないだから母を怒らせた」と自責の念で押し潰されそうだったが途中から憎しみが生まれていたし、初めての反抗の連絡を入れた。
 
 
 
「何に怒っているのか理解できません。私が思い通りにならないからですか?私だけが楽しい思いをしているからですか?
※原文まま
 
 
 
案の定、手のひらを返したようにしおらしくなって「ごめんね、もういいよ。お母さんが出来ないことをしてもらっているのに」とかうんたらかんたら来ていた。
 
結局、私がいなくなることを恐れているのにいつまでも自分の思い通りにならないと拗ねてキツく当たるのだ。
 
 
 
翌日の朝のメールには「一睡もしていません」と返事がきたので私は寝起きの一服を楽しみながら真顔で「私のせいだね、ごめんなさい。」と返信した。
 
 
 
ここで私はこの毒親との馴れ合いにふと嫌気がさした。今までは父も他界して母と娘で支えあって~とか呑気なことを考えていたがこのままでは私の人生が母の人生になってしまう。
 
そこでとりあえず毒親を検索。そしてヒットしたサイト。
 
 

www.buzzfeed.com

 

 
 
色々あるんやなぁ。と思いながらとりあえず1冊手にとってみた。
 

 

母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き

母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き

 

 

 
 
 
笑うしかなかった。
 
母のことがいっぱい書いてあった。悲しくなった。母ってやっぱり毒親じゃんって。どこかで私は「私が出来損ないだから母がこうなってしまった」と思っていたんだと思う。
 
 
私は自己肯定感が異常に低い。だがそんな自分を隠すためにニコニコ笑いながら仕事もするし、興味を持っていると言って資格も取る。だがその裏側には「こんな私は誰からも認めてもらえない」と思っているし「お母さんに褒められたい」のだ。
 
 
母にとっての「作品」が出来損ないで申し訳ないと思うからまた救いようがない気もするけれど。
 
 

毒親の生態。

我が母、毒親の生態と私の対応についてのまとめ。

 

 

  • 私の予定は全て把握していないと気がすまない。

 

私が嘘をついているなんて思ってもいないようで、全てを信じている部分は馬鹿な毒親だと思う。面倒だから「ジム行って来るわ」とか言ってるけど本当は全然違う。

 

 

  • 私だけが楽しむことが気に食わない。

私が楽しいことをした日は確実に私をどん底まで落とす。方法は様々で無駄にキレてみたり「お母さんは楽しいことがないわ…」としおらしくしてみたり。

ルーティーンである夜の電話を2日連続で出来ないだけで無駄にキレる。

面倒だからアイドルの追っかけしてても本当のことは言わないことが増えた。

 

 

  • 母の思い通りの反応をしないと怒りだす。

昔からそうだが、母に対して「いい子」でいないといけないし、母がAと思っていればAだと言わないと怒りる。

最近は「あんたはなんなん?」「言ってることが一貫していない」とグチグチ言い出すようになった。例え好きなアイドルの話しでも!面倒だから話しを聞かないことを覚えた。

 

 

  • 怒った後は私に言葉巧みに罪悪感を植え付けて「ごめんね」を言わせたい。

私に一通りキレた翌日の朝は決まって「一睡もしていない」連絡。「私のせいだよね、ごめんね」と言えば満足するようなので朝の一服をしながら馬鹿じゃねぇのこいつと思いつつメールを送る。

 

 

  • 母の知らない私がいることが嫌い。

彼氏だろうが友達だろうが、とにかくマウンティングする。彼氏を連れていった時に過去のアルバムを大量に見せて「あぁ~この時はまだ知り合ってもないやんな?わからん話ししてごめん~」と言って笑ったからこの人終わってると思った。そのアルバム、小学生のやん。

 

 

  • 私の通帳を管理。

3ヶ月に1回くらいは「貯金がなくて不安だ」と夜中に電話をしてくる。

心底馬鹿な人だと思うけれど口座は別にあるし、内緒の仕事でOLと同じくらい稼いでる。稼いだ分と同じだけアイドルに突っ込むから貯金がないことは事実だけれど。

 

 

  • 私に嫌われたくないから必死

数ヶ月に1回くらいの割合で5万円相当の服を送ってきたりする。アイドルの話も服の話も全部私のためにするし、私がいないとダメなの~~~と言う人。

服は有難くもらっておくけれど分かりやすくて最近気持ち悪い。

 

 

 

普段は私はあっけらかんとして「○○くん大好き~」とアイドルを追っかけ回している。私はにこにこ笑っている。「うち、母親と仲良くて~」って笑っているけれど仲良く見せているだけで母親が憎い。

 

言葉巧みに私を操り、私に罪悪感を植え付け、「私がこんな出来損ないだから母が悲しんでいる」「私がダメな人間だから母が辛い思いをしている」「私がダメなんだ」と精神的に追い詰めてくる人間だ。

 

 

ただ、私が母が毒親であること、自分がアダルトチルドレンだと思われること、母と共依存の関係にあると思われること。そこに気付いてからは少し気が楽になった。

母が怒っているとき、無駄にキレられているときは空気に飲まれて罪悪感が生まれるけれど、今は深呼吸をして「こんなウルトラスーパー毒人間に振り回されてる自分可哀想…」「でた、妖怪毒人間」と思うようにしている。

 

 

 

そこまで憎んで、物理的距離があるのにどうして母と離れられのか?

 

そんなの、私がいなくなったら母が1人になって可哀想でしょう?と思うから離れられないのだ。これは私の性格が悪いのか、共依存の中での感情なのかは分からない。

 

ただ母が他界しても父が他界した時のように泣くとは思えない。きっと自由になったと喜ぶだろう。
 
 
 
 
私の今の悩みは6月に行く名古屋のコンサート。どう嘘をついて行くかだ。
 

毒親と私。

ゆーさんです。

 
ああ、私の母は毒親なんだ。そう思って早数年。
父の死語、一気に加速する母の毒加減の吐きドコロがなく私が潰れそう。先日初めて反抗したので記念に開設。
 
 
アドバイスは求めません。
そのアドバイスを聞けるならもうとっくに毒親と離れてます。
 
あと、私が誰だか気付いても声をかけないでください。
 
 
 

◆吐き溜め登場人物(年齢は2019.3現在)

随時更新。
 
・私
27歳OL。内緒で夜の仕事もチラッと。2017.7に卒業
高校入学の16歳から首都圏にて一人暮らし。
趣味はアイドルの追っかけ。
アイコンとはかけ離れた服が好き。CanCamとか。
自分でアダルトチルドレンだと思っているし毒親の母と共依存の関係だと思っている。
結婚した。
 
・母
63歳契約お掃除おばさん。
関西圏にて母の実母と同居。
趣味はアイドルを見ること、私の服を買うこと。
ひとりっ子の私命の毒親
私の旦那が嫌い。
 
・父
2016.8に他界。
私を逃がすように首都圏に送り出してくれたことを感謝。
 
・旦那
7歳上の旦那。「お隣さん」と書いていた人。
 
 
 
毒親とのルーティー
・仕事に行く前にその日の服装の写真を送る。→自然消滅に成功(2017.7)
毒親が休みの日は毒親のランチの写真にコメントのメール返信。
・夜はほぼ毎日1時間の電話。出来ない日は数日前から報告。→旦那(当時、彼氏)と暮らし始めて消滅に成功(2017.7)
 
 
 
 
過去のことも、現在のことも、全部吐き出したい。
仲良し母娘なんて笑わせる。いつだってヒステリックな母親にキレられないように顔色を伺っていい娘でいるように努めているだけ。そんな自分が嫌いだけど、諦めるしかない気もしている。
 
 
毒親から物理的な距離を取らせてくれた父親には感謝しか無い。本当に父親が大好きで、正直未だに死を受け入れていないのも事実なので安心して成仏させてあげられないことは申し訳ないと思っている。
 
 
 
いつか私が自由になれる日がくることを祈って。