毒親と。

毒親に対して何もできない私の吐き溜め。

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毒親と私の幼少期。

これから少し、過去を振り返ろうと思う。自分がどうしてこうなったかを見つめるためにも役立つかな。

 

昔は2DKのアパートに父、母、祖母、私の4人で暮らしていた。確か3歳頃に祖母を引き取ったはず。
 
私は物心ついた時に父と名字が違うことが不思議だった。
 
 
 
毒親は自分で私の事を「玩具だった」と言う。アルバムも何冊もあり、日付が同じなのに服が違っているなんて当たり前だった。着せ替え人形であり、自分の意のままに動かせる人形だった。
 
 
毒親は教育熱心だった。理由は父の前妻の娘2人、父の家系の従姉妹に負けたくなかったから。幼稚園児の時点で絵本を自分で読んだし、算数もほいほい解いた。私の名前は当て字と言えば当て字で書き間違えや読み間違えも多いが幼稚園児の時に書き間違えを指摘して自分で書いて見せた。我ながら気持ち悪い。
 
覚えているだけで絵画教室、器械体操、英会話、ダンス、バレエ、エレクトーン、スイミングに通っていた。毒親曰く「嫌って言わないいい子だった」らしいが、嫌と言って相当怒られていたような記憶があるので怖かったんだと思う。
 
 
 
今でも覚えている3歳頃のある日。
夜に父の運転する車で近所の公園の前を通った。その公園を見た私は「今日、遊びに来た」と言ったのだが母は「遊びたいなら今すぐ降りろ」と言った。父に車を停めさせ、車から降ろされた。私はそりゃあもう、いっぱい泣いていた。
そこまでしか記憶はないが、相当鮮明な記憶で母も覚えているようだった。この話をすると「さっさと忘れたらいいのに」と言う。
 
 
私が3歳の頃だったと思う。阪神淡路大震災があった。父がいなければ私はタンスの下敷きで死んでいた。だがこれを機に父の精神が死んだ。鬱病
幼稚園児の私はお父さんはいつも寝ている、と思っていたし母が泣きながら色んなところに電話をしている時は人形遊びをしていた。後から知ったが父は酒を飲んで車に乗って家出を何度もしていたらしい。
 
父の鬱病は私の記憶の中では薄い。母の父へのストレスは全て私に向いていたし、私はお稽古で家にいることが少なかったから。友達と遊んだ記憶が全然ない分、泣きながら練習をしたことが鮮明に思い出せる。
 
 
幼稚園児だった私は突然、英会話スクールに通うことになった。
可愛いイラストの書かれたアルファベットのカードを目の前に並べられてアルファベットを覚えさせられた。私はMとNが分からなかった。正座をしていた太ももを何度も叩かれた記憶があるが、母には「1日でアルファベットを全部覚えたいい子」として素晴らしい思い出になっている。
 
 
 
小学3年生になる頃に引っ越した。3LDKで家族は同じ。自分の部屋が出来たが寝る時は親子3人で寝た。
 
この頃には父の鬱病はかなり軽くなっていたように思う。酒を飲んでから仕事に行くこともなくなっていた。そしてこの頃に父には本当は奥さんがいて、娘がいること。本当は別居状態にあるだけで籍はその人と入っていること。今から父はその人との籍を抜いて準備が整ったら母と籍を入れて戸籍上で夫婦になること。それを聞かされた。小学3年生にして衝撃だったがだから名字が違うのか~くらいに思っていた。
 
小学4年生になるときに両親が籍を入れて私の名字はようやく大好きな父と同じになった。
 
 
 
 
幼少期の私は本当にお稽古に時間を割いていた。ゲームなんてしたことがなかった。友達の家に行ったこともないし呼んだこともない。ひたすら母に褒められるように頑張っていた。
 
エレクトーンだって頑張った。県内2位までにしかなれなかったけれど。器械体操はもっと頑張っていた。年2、3回ある大会は辞めるまで全て優勝していた。ダンスはいつだってセンターで踊った。唯一、自分からやりたいと言った水泳は楽しんでいたが小学3年生の時の引越を機に辞めてしまった。転校先に水泳が得意な同級生が何人もいて、自分では到底及ばないことが恥ずかしかったのだと思う。
 
「何事もそつなくこなせる子供だったことが悪かった」そう言われた時は絶望した。
 
 
 
 
ここまでの期間に理不尽に母に叩かれ、怒鳴られたことは容易に思い出せるのに褒められたことを思い出せない。
エピソードがありすぎて割愛させてもらう程だ。
 
悲しいかな、毒親はここから加速する。