毒親と。

毒親に対して何もできない私の吐き溜め。

ご挨拶と登場人物 // 毒親の生態まとめ

にほんブログ村 家族ブログ 毒親へ///にほんブログ村 家族ブログへ//////ブログランキング・にほんブログ村へ

私と首輪。

父の夢を見た。

 
仕事に行く父の背中を見送った夢だった。
 
 
仕事をしていて思い出して、「ああ、あの背中は父だ」と思ったくらいぼんやりしたものだった。でも未だに父の死を受け入れられていない自分に笑うしか無かった。
 
 
 
 
そんな私は「首輪」をしている。毒親からハタチの誕生日にもらったネックレスだ。
 
別に絶対していなければならない物ではないけれど、なんとなく今まで絶対に外せなかった。ちなみに、母が知り合いのバー経営者に貰ってドレッサーに眠っていたものだったらしく、母の誕生石のルビーだ。
 
 
私は客と会話を楽しむ店にいるのだが、アクセサリー関係は客の目につくようで色々と突っ込まれる。面倒になった私はネックレスは外すことにした。
 
終電まで出勤してから、翌朝10時から出勤などストイックに予定をつめている私は付け外しが面倒なので連勤の時は外したままにすることにしたのだが、ここで衝撃だった。
 
 
ネックレスないとめっちゃ開放感あるやんけ…
 
 
これで私は首輪と認識してしまったのだが、無いと無いで落ち着かないし、今度は会社の人に突っ込まれることが発覚した。しかも私、外していると無くしそう、絡ませそう。ああ、面倒くさい。
 
結局は出勤以外はネックレスをしている自分も面倒くさい。
 
 
 
 
ちなみに私、昨日3番さんとの再会にむけての名古屋行きを素直に伝えた。ちょっとFXに興味があるので、FXをしていると言った。しかも架空のお友達の設定を少し付け加えてまで説明したので自分の中で忘れないようにしないといけない。
 
まぁ、まだFXはしていないけれど、7月に毒親に会うまでにFXを実際に開始しておけば画面を見せることも可能なので今はそっちに向けて少し動いている。
 
 
騙されて可哀想な毒親。と思いながらも毒親が言った「私達の仲の良さって異常じゃない?」に驚いた。
 
 
異常ってわかってたんだ!!!
 
 
仲良しだと思っている点は相変わらず可哀想な人だと思う。この人に苛立たしく思わず、のらりくらりと交わすことができれば私も少しはまともになれるのだろうか。
 
毒牙にかかった身はなんとかしないといけないと思いつつ、なかなか思い通りに動かなくて余計にがんじがらめになってしまう。
 
 
自由、とは?
 
 

にほんブログ村 家族ブログ 毒親へにほんブログ村 家族ブログへ にほんブログ村 芸能ブログ 男性アイドルへ

毒親と昨日の電話。

毒親に腹立たしいことが増えてどうしていいか分からない日々ですが、皆様いかがお過ごしですか?

 
 
ミュージカルなどなどを観たい毒親のために劇場の会員になることが多いけれど、登録メールとか届くことを嫌がるのでもちろん私の名前で登録している。ものによっては他サイトの情報を使って登録できるからラクなのだけれど、クレカ情報を編集できないサイトもある。
 
 
だいたいコレが観たいと言われて、その劇場のメルマガを毎回じっくり読んで毒親の観たいミュージカルの先行抽選に申し込む。ぶっちゃけ、私次第なのでメンドクセと思ったら申し込まなければいいのだけれど、基本的に毎日電話をして毎日言われるので申込開始日にまた言えと言っておく。
 
 
 
そして昨日、朝6時に毒母からメールが来ていた。「○月○日○時公演の申込をお願いします。」
 
終電まで働いて4時間半の睡眠で体にムチ打って稼ぎに行っていることは毒母には言っていないが、流石に休みの日に起きてこのメールが来ていたら誰だって嫌だと思う。
 
イラっとしてメールを閉じて出勤していたら、9時に「起きた?」とメールが来てイラっとMAXになった。大体申込、11時からなんですけど~?先行じゃないんですけど~?前から言ってるよね~???つーか休日で9時に起きるわけなくな~~~~~い?と言う苛立ちと睡眠不足の中、なんで毒親のために休日を使わないといけないのかが理解できず、「11時からなんで二度寝していいですか?」と返した。
 
 
毒親が休みだということで出勤中もメールとか電話が来ることを恐れながら働いていたら、案の定メールが来ていた。なんで毒親のために休日を使わないといけないのかやっぱり理解できない。いや、この苛立ちも必要経費、面倒くさいことにならないための必要経費…と思ってもやっぱり腹が立つことは事実。
 
毒親育ちの方は毒親に苛立ったとき、どう自分の気持ちに折り合いをつけているのか不思議だ。
 
 
 
のらりくらりと休日の昼間に無駄な連絡は取らないように努め、夜に電話をした。この人本当に私の話を聞いていないからもう売り切れでしょ?いいよ、とか言い出すし「抽選!!!」とちょっと強めに言ってしまったが「それならやって~」とコロっと変わるから毒親は流石だった。
 
 
クレカ問題が出てしまったので外れて構わない。この状況で当たると金を払って貰えない流れがデフォだ。くそう。私は3番さんとのはっぴ~さま~、リアコさんとのはっぴ~さま~&お~たむがやってくるから金が必要なんだぞ!!!
 
 
 
とりあえず下手に刺激しないように毒親と会話をしたが毒親は変な所でバカアピールをしてくるし、だいたい私の話で興味が無いことは理解しようとしないクセに変な解釈をして決め付けて、話を長引かせて私をイライラさせる。
 
 
私:3番さんが高校の同級生とのホームパーティーの写真が流出してんけどホームパーティーとか可愛くない?
毒:3番さんっていくつ?
私:○歳
毒:今、高校行ってるん?バカやったんや~
私:高校の同級生って言っただけでなんで今通ってることになってんの
毒:同級生なんやろ?あんたの言うこと意味わからんわ
 
 
この流れ!本当に!嫌だった!!!!興味がないのは構わないけれど変なことを言って苛立たせないでほしい!!!!お前は学生時代の同級生と会わないのか!???!?
 
ってゆーか私の説明不足なのだろうか?と悩むけれど私はそこまで深く掘り進めるつもりもなかった話題なので適当にウン、ウンって言っておいてくれればよかったわけで、私ももういいわと言ってこの話はやめた。
 
 
 
昨日の電話では毒親の勤め先に新人が来た話をされた。その人への教育方針が他の人と違って辛い、と言われたが他の人の方が私もいいと思うから大変だね~としか言わなかった。悪いが毒親の話を聞く限り私が経営者だったら毒母を切ると思う。そこでも奴は毒なので勤め先の人に申し訳ない。
 
 
 
私も私で認知が歪んでいるので誰にも強くは言えない。
 
ただ、競馬で負けてウダウダしている人には言いたい。1万くらい負けたくらいでウダウダ言うな。趣味には金がかかるのだ。
 

にほんブログ村 家族ブログ 毒親へにほんブログ村 家族ブログへ

*

毒親と高校時代~最近まで。

さて、私は高校生になると同時に都内にやってきた。

 
高校は渋谷。バイト先は新宿。高校3年間の思い出はなぜかあまりないのだが、この頃にはウィルコム毒親も持って長電話をしていた記憶はある当時は毎日電話をしないといけないという毒親ではなかったはずだ
 
と、いうことでここからは早送りで毒親エピソードを語りたい。
 
 
高校生の時はそこまで毒親ではなかった。
 
大学生の時に20時に連絡が取れないと警察沙汰にされたが私は映画を観ていた。なぜ連絡しないのだと怒られて「大学生にもなってここまで私の予定を話さないといけないのか?」と悩んだ。当時、同い年の彼氏が家に上がりこんでいたが電話が出来ないことに毒親はイライラしていたらしい。知らんがな。大学生の頃が1番アイドルに狂っていたが毒親は2番さんにたいして興味を持たなかったので「好きな意味がわからない」と言われ続けてきた。
 
 
社会人になって新しい彼氏ができ、休みの日は彼氏と一緒にいたが案の定電話が出来なくてイライラしていたらしい。毎朝メールは絶対にしていたし、そこまでか?と思っていた。この彼氏には私の幼少の頃のアルバムを見せて「この頃なんか知らないよね~ごめんね、知らない話して!」と謎のマウンティングを見せた。
 
社会人にもなって通帳は返って来ないしそれを見て「将来が心配」と連絡を寄越す頻度が上がった。仕方ないだろう、大学生の頃より収入が少ないんだよ!と思っていた。
 
 
 
父が亡くなったのは社会人3年目の夏だ。社会人2年目の終わり頃から父は認知症となり、母も働きながら面倒を見ることが辛くなっていた。死にたいと連絡も来るようになったし、父に早くラクになって欲しいとも言っていた。
 
毒親に育てられていて、のらりくらりと生きていたがここで毒親の猛毒を私は全身で喰らったし、今までの毒親の子育ての成果を私はここで発揮した。「お母さんが大変な時に私だけ楽しい思いをしているなんて辛い、申し訳ない。」そう言って私は彼氏と別れた。
 
 
社会人3年目になって父は施設に入ったり入院したりとしていて私も何度も実家に帰った。私は大好きな父が壊れていく姿、痩せ細った姿を見て泣きたかったが毒親は良く泣いたので我慢していた。この頃は毒母と支え合うように連絡を取っていたと思う。
 
 
そして夏。父は旅立った。帰ってこいと言われてから私が病院に着くまで結構な時間があったが父は待っていてくれた。最後に反応を見せたのが毒親の「愛してるよ」と言う言葉に力強く手を握ったことという点だけは嫉妬しているけど!!!
 
 
 
ちなみに私はまだ父の死を完全に受け入れられていないので色々と割愛。ただ、これをきっかけに毒親は私にベッタリになっている。私も毒親に寂しい思いをさせてはいけないと思ったから本当に毎日電話をするように頑張ったけれど、それが間違いだったなと今では思う。私の時間がとにかくない。
 
休みの予定は言わないといけないし、2日連続で電話が出来ないとなるとフォローも大変だ。よくこれで嘘をついてほいほいライブ行ってるなぁとつくづく思う。夏~秋にかけて必死に働いて必死にアイドル追っかけ業に専念したいのだが、100%これは毒親に言わないと電話をどう説明していいか分からないのでそこは頭を抱えている。
 
 
毒親は最近、私への嫉妬が酷いのでいつか私が爆発するのではないかと思っている。なぜかやたらと色んなミュージカルなどを観劇して「いいな~」と私に言わせたがる。まあそのチケット誰のお陰で取れてると思ってんの?私が買わなかったら行けないんだよ?ん?と内心思っていることは内緒。
 

にほんブログ村 家族ブログ 毒親へにほんブログ村 家族ブログへ

毒親と残業。

お疲れ様です。


我が部署にはおかしな暗黙の了解があって、社歴が1番下から退社しないといけない。そうすると私が退社可能でも下が残業となると私も残業することになる。


今の1番下の子が報告・連絡・相談がまるで出来ないし仕事が素晴らしく遅い。出来ると言って出来ないこともしばしば。(軽度の発達障害を疑っている)


私は毒親の素晴らしき愛と過去に患ったものが再発したら辞めることを伝えているけれど、暗黙の了解は下の子の残業申告時間までは守る。さすがに申告時間過ぎたら置いて帰る。

申告時間までは守るけど!

定時10分前に言うのはやめてくれないかな!!



1週間のスケジュールが変わったらまず本気で謝罪メールしないといけないし、私が悪いんですって言ってる内に本気で凹んでくる。

それで悶々としながら今後のスケジュールで調節できる日を探すしかないし、家で懐かしのウィルコムで通話したいけれど帰りの家までの道のりでスマホから電話も致し方ない。


最終的にそれがあった次の日は凹んで暗い1日を過ごす。



上司に言えるわけもなくて毒にやられて毎日ごめんなさいごめんなさいって毒親に言ってることに凹んで寝れなくて体調崩したから言ったんだけど。

やっぱり毒親のことは普通の家庭で育った人には理解できないこと。
上司にはそんなん親の電話切れよ、無視しろよ、って言われ続けていた。


普段へらっとしてる私も我慢の限界がきてある日突然、真顔で「毒親にそれは逆効果です。母との時間削られるならどんな手を使ってでも辞めさせられます。」って言ってしまってちょっとは理解してくれたんだろうけど、真意はわからない。



今日も申告時間の19時に下の子を置いてピュンっと退社してきたけれど、ここから毒親に何を言われるのかを考えると消えてしまいたくなる。

しかも毒親、今日は仕事が休みだったのにメールに気付かないという痛恨のミスを起こしてしまって既に拗ね気味なのだ…



は~~~自由になりて~~~


自由になる前に毒親が変わってくれたら最高なんだけど。無理だし。電車遅れてるし。凹む。

私と中学時代。

私は母の志望校に無事に合格して、その女子校へと入学した。可愛い制服に身を包み、毎日坂を登った。
この頃には立派にアイドルオタクになっていたが世の中には広まっていない人が好きだったから私はネットの世界にのめり込んだ。
 
懐かしい前略プロフィールとか、ブログとか、そこら辺の時代を生きながら私はのらりくらりと生きていたと思っていたが、帰宅したら母が寝ていた。
 
 
 
「お母さん死ぬかも」
 
今死んだら父の面倒誰が見るんだよ、そんな感想だった気がするが色々と検査をした結果、母はパニック障害との診断が降った。しかも原因が「今まで全力を注いできたことが突然なくなってしまったから」ときたから驚いた。私の受験が終わったからだった。
 
 
母は1人で電車に乗ることが出来なくなった。公共機関を使わない近所にしか行けず、私がいないと遠出が出来なくなった。(ちなみに今はほぼ回復して1人で新幹線に乗って東京に来ることもできる
 
 
 
この頃から「私がいないと母は何もできない」と思い始めたし、母も「娘がいないと何もできない」と思い始めたのだと思う。実際その頃はそうだったので仕方ないが数年の刷り込みで今でもお互いにそう思っているのが怖いところだ。
 
 
 
そんなタイミングで私の好きなアイドルが突然、爆発的に人気になった。私は嬉しかったが女子校はそんな簡単な世界じゃない。そのアイドルのライブに行ったことがある私は突然グループの輪から外れた。誰も話してくれなかった。部活ですら浮いた。
 
 
私は通っている女子校に対して色々と不信感が募っていたし、ネットで友達を作ることにも抵抗がなかったから学校で友達がいないからなんだ?と思っていた。それも女の子が気に食わなかったみたいだが。
 
 
 
当時は学校に携帯電話の持ち込みが禁止だったが、親のこともあって隠れて持っていた。ひょんなことからそれがバレて私は停部。毒親は私の通学や塾の時間に連絡が取れないことが不安だったらしく発作が出てしまうという悪循環。(その後は学校に許可を取って持っていたけど)
 
部活に復帰後、私の部は電車に乗る距離の他校と試合をすることになった。その日の貴重品回収、先輩たちは平然と財布と携帯電話を預けた。顧問の目の前で預けた
 
 
私はもう試合どころじゃなかった。携帯電話の所持がバレて1番怒ってきたのは顧問だったし、私が1番謝って、退部はしたくないと言ったのは顧問だった。なんで先輩はいいのに私はだめなの?意味ワカンネ!!!!!
 
 
 
まあ結局私はその出来事が引き金となって部活は辞めた。
 
と言うより、メニエール症候群になったので運動が出来なかった。有難く私は学校をサボりまくったし、学校に行っても授業をサボりまくった。大体そういう時期は厨二病を発症してる子がいるもので、保健室で手首に包帯を巻いた子たちと昼食を取っていた。
 
 
今、思い返せば自律神経失調症だったんじゃ?と思う症状なのだが、私が目眩で動けなくなった母が焦って発作を巻き起こしたので自力で耳鼻科に行ったし、もう過ぎたことなので気にしても仕方ない。
 
 
 
学校では厨二病の子たちと暗いオーラを出していたが、私は休みの日には化粧をして髪を巻いてギャルと呼ばれるような見た目を目指した。ギャル雑誌を読み漁って私も髪を染めたい、ネイルもしたいと渋谷に憧れた。その中でもメイクは大好きだった。
 
その雑誌に渋谷にあるファッションやメイクを学ぶことができる高校、専門学校が掲載されていた。私は高校は通っていた女子校を辞めて別の学校に行くことを決めていたし、高校でメイクの勉強ができる学校も色々と調べていたがこの学校は渋谷にしかなく、高校を卒業したらこの専門学校に行こうと思っていた。
 
 
そんなことを考えていた休日、全寮制の学校のテレビ番組を見ながら毒母がいきなり「あんたも寮入れば」と言い出した。
 
 
私はここでとんでもない俊敏力を見せつけて愛読しているギャル雑誌を出した。
 
 
 
ここの高校、学生寮(と言う名の学生マンション)から通学できるよ!!!!!!
 
 
 
そして両親が話し合って私は東京に出ることになった。まさか父が私を出してくれるとは思わなかったが、今ならわかる。父は毒母から逃してくれたこと。
 
父は夜な夜な母が私に強く当たることを止めるように話しをしていたことも、いい女子校に入ることをよく思っていなかったことも最近聞いた。そんな父だったから、私の背中を押して東京に出してくれたのだと思う。
 
 
本当に感謝しかない。愛してる父。もう伝えられないけれど。
 
 

にほんブログ村 家族ブログ 毒親へにほんブログ村 家族ブログへ

毒親と中学受験。

結果から言うと母の望む中学に進学した。私は全く行きたい学校ではなかった。
そこに合格するまでの記録。
 
 
 
小学3年生の後半から私は関西で有名な某進学塾の定期テストを受けていた。入塾テストは1回で合格したが、なぜか3年生の間は定期テストだけだった。
小学4年生になると私は進学塾に正式に入塾した。毎回テストがあり、点数が悪いと叩かれた。怒鳴られた。
 
母はとにかく、父の前妻の娘と父の家系の従姉妹よりも「いい学校」に入れたくて仕方なかったのだ。後から聞けば母が勝手に戦っていた女の子たちは私の頭なら塾なんて行かなくても入学できたであろう学校ばかりで、スパルタ塾に土日はお弁当を2つ持って12時間も缶詰だった私には心底羨ましかった。
 
 
 
小学4年生の途中で私は進学塾の地元の校舎から本校に移った。競争心がうんちゃらと言っていたが、従姉妹がそこに行っていたからだろう。ただ、そこは素晴らしかった。
S1コースとS2コースのテストは同じなのだが、テスト時間が違う。S1コースが算数、社会とくればS2コースは社会、算数だった。周りは別クラスに友達を作ってテストの回答を持ち出して交換していたのだ。頭がいいのか悪いのか、今でもそういうことをしているのかは分からないけれど、私ももちろん仲間入りした。私達はテストの点数が良すぎてSSコースに上がることもなく悪すぎてAコースに落ちることもないように調節しながらテストを受けていた
 
その進学塾は通っていた小学校からも何人か通っていた。もちろん地元の校舎に通う子もいた私はその子も仲間に入れた。校舎が違えばテストの曜日も違うのだ。何人かで回答用紙を回してメモを作る様子は異様だったと思う。だがそうでもして親に怒られることを逃げてたい人間で溢れていた。
 
 
 
 
私は算数が苦手だった。焦って間違うことが多く、あと1つのところでミスる。
そのことに腹を立てた母は私を毎日6時に起こし、朝から計算問題を解いてから小学校に見送るようになった。間違うと朝から定規で背中を叩かれたり辞書の角で頭をぶたれた。今思えばこれって虐待
 
スパルタ塾は夜10時頃に帰宅するようなスケジュールだったと思う。そこからテストのお説教や宿題、復習の繰り返しだったので必然的に日付が変わってから寝ていたはずなので私は案の定、睡眠不足で倒れた。倒れたが学校に行ったような気がする。
 
 
 
 
私は関西で1番、偏差値の高い女子校に行きたいと言ったことがある。確か6年生になってすぐの時だ。その数週間後に母と塾講師の面談があったのだが、「あんたの頭じゃ合格率0%だってよ!お母さんが恥かいたわ!」とご立腹の様子だった。実際私が行った女子校とそこまで差があったわけではないのに、その中学は「合格率100%」と言われたと聞かされた。まぁ、実際は行きたかった女子校も合格率60~80%と言われていたらしいが母はどうしても安心して受験させたかったらしく、合格率100%の中で1番偏差値が上の学校を私に受験させたのだ。母の言い分は「0%って言えば諦めつくでしょ?」だった。聞かされたのは合格して数週間後と割と早い時期だったので母を恨んだきっかけかもしれない。
 
 
 
 
そんなある日。その日もこっぴどく親に怒鳴られた私は夜に日記を書いていた。その日は初めて「自殺したい」と書いて私はトイレに行った。リビングに戻ると母に「座れ!!!!」と言われていつものように正座をさせられた。そして目の前に広げられた日記。私は衝撃だった。鍵のかかる引き出しに入れているはずの日記が目の前にあるのだ。
 
母は自殺がいけないことについて泣きながら私に訴えかけていたが、自分は全て母に見られていて隠すことなんて出来ない、プライバシーなんてない現実を受け入れられなくて泣いていた。どうして見るの?なんて言えなかった。
 
 
ささやかな反抗として「塾で勉強する」と言って友達と遊びに行ったことがある。案の定、塾に電話をされて見つかった私は母に怒鳴られることになるのだが、とにかく家にいたくなかった私は親に頼んで個別コースも受講することにしていた。個別コースなんて座って解いているフリをしていればいいだけだった。
 
 
 
 
実際に受験をするのは私なので私の脳みそにかかっていたのだが、母が頑張っていた。自作の問題集を作っていた。実際に解いたのかは覚えていないが相当の時間とお金と労力を使っていた。
 
そんな母のストレスの発散は私の服を買うことと、当時はやっていたアイドルのコンサートに私を連れて行くことだった。「ほら、喜ばせることもしてるでしょ?」というのが見え見えなのだが、私はコンサートは素直に嬉しかった。服はなんとも言えないが某有名ブランドで染められて金のかかる進学塾に通う私はお金持ちに見えていただろうと思う。
 
 
心底無駄な見栄をはる毒親だった。
 
 
 
 
ここまで影の薄い父。アルコールばかり摂取していた。
母は逃げるように私にしか興味を示せずに色々とおかしい家庭だったと思う。
 
よく私も母の志望校に合格したもんだ。
 
 
私の受験はここで終わったと思ったが、終わらせないのが私。
 
 
 

毒親と私の幼少期。

これから少し、過去を振り返ろうと思う。自分がどうしてこうなったかを見つめるためにも役立つかな。

 

昔は2DKのアパートに父、母、祖母、私の4人で暮らしていた。確か3歳頃に祖母を引き取ったはず。
 
私は物心ついた時に父と名字が違うことが不思議だった。
 
 
 
毒親は自分で私の事を「玩具だった」と言う。アルバムも何冊もあり、日付が同じなのに服が違っているなんて当たり前だった。着せ替え人形であり、自分の意のままに動かせる人形だった。
 
 
毒親は教育熱心だった。理由は父の前妻の娘2人、父の家系の従姉妹に負けたくなかったから。幼稚園児の時点で絵本を自分で読んだし、算数もほいほい解いた。私の名前は当て字と言えば当て字で書き間違えや読み間違えも多いが幼稚園児の時に書き間違えを指摘して自分で書いて見せた。我ながら気持ち悪い。
 
覚えているだけで絵画教室、器械体操、英会話、ダンス、バレエ、エレクトーン、スイミングに通っていた。毒親曰く「嫌って言わないいい子だった」らしいが、嫌と言って相当怒られていたような記憶があるので怖かったんだと思う。
 
 
 
今でも覚えている3歳頃のある日。
夜に父の運転する車で近所の公園の前を通った。その公園を見た私は「今日、遊びに来た」と言ったのだが母は「遊びたいなら今すぐ降りろ」と言った。父に車を停めさせ、車から降ろされた。私はそりゃあもう、いっぱい泣いていた。
そこまでしか記憶はないが、相当鮮明な記憶で母も覚えているようだった。この話をすると「さっさと忘れたらいいのに」と言う。
 
 
私が3歳の頃だったと思う。阪神淡路大震災があった。父がいなければ私はタンスの下敷きで死んでいた。だがこれを機に父の精神が死んだ。鬱病
幼稚園児の私はお父さんはいつも寝ている、と思っていたし母が泣きながら色んなところに電話をしている時は人形遊びをしていた。後から知ったが父は酒を飲んで車に乗って家出を何度もしていたらしい。
 
父の鬱病は私の記憶の中では薄い。母の父へのストレスは全て私に向いていたし、私はお稽古で家にいることが少なかったから。友達と遊んだ記憶が全然ない分、泣きながら練習をしたことが鮮明に思い出せる。
 
 
幼稚園児だった私は突然、英会話スクールに通うことになった。
可愛いイラストの書かれたアルファベットのカードを目の前に並べられてアルファベットを覚えさせられた。私はMとNが分からなかった。正座をしていた太ももを何度も叩かれた記憶があるが、母には「1日でアルファベットを全部覚えたいい子」として素晴らしい思い出になっている。
 
 
 
小学3年生になる頃に引っ越した。3LDKで家族は同じ。自分の部屋が出来たが寝る時は親子3人で寝た。
 
この頃には父の鬱病はかなり軽くなっていたように思う。酒を飲んでから仕事に行くこともなくなっていた。そしてこの頃に父には本当は奥さんがいて、娘がいること。本当は別居状態にあるだけで籍はその人と入っていること。今から父はその人との籍を抜いて準備が整ったら母と籍を入れて戸籍上で夫婦になること。それを聞かされた。小学3年生にして衝撃だったがだから名字が違うのか~くらいに思っていた。
 
小学4年生になるときに両親が籍を入れて私の名字はようやく大好きな父と同じになった。
 
 
 
 
幼少期の私は本当にお稽古に時間を割いていた。ゲームなんてしたことがなかった。友達の家に行ったこともないし呼んだこともない。ひたすら母に褒められるように頑張っていた。
 
エレクトーンだって頑張った。県内2位までにしかなれなかったけれど。器械体操はもっと頑張っていた。年2、3回ある大会は辞めるまで全て優勝していた。ダンスはいつだってセンターで踊った。唯一、自分からやりたいと言った水泳は楽しんでいたが小学3年生の時の引越を機に辞めてしまった。転校先に水泳が得意な同級生が何人もいて、自分では到底及ばないことが恥ずかしかったのだと思う。
 
「何事もそつなくこなせる子供だったことが悪かった」そう言われた時は絶望した。
 
 
 
 
ここまでの期間に理不尽に母に叩かれ、怒鳴られたことは容易に思い出せるのに褒められたことを思い出せない。
エピソードがありすぎて割愛させてもらう程だ。
 
悲しいかな、毒親はここから加速する。